連続テレビ小説『風、薫る』第13週は、胸が締め付けられるような週末を迎えました。
特例で看護科の授業を受けることを許され、不眠不休で勉学と仕事を両立させようとしていた看病婦・三浦ツヤ(東野絢香)。しかし、過労から術後の投薬を忘れるという痛恨のミスを犯し、多田院長(筒井道隆)から非情な「解雇通告」を言い渡されてしまいます。
直美(上坂樹里)の必死の抗議に対し、多田院長が言い放った「貧困は病院の仕事ではない。あなたたちはトレインドナースとして、相応しい仕事をしなさい」というセリフは、実に冷徹で、かつ当時の医療界の現実をリアルに浮き彫りにしていました。
今回は、医療や明治時代の世相に詳しい視点から、まだ日本に「看護の訓練を受けたナース」が数人しかおらず、看護婦の業務すら定かではなかった時代の医療を取り巻く世相を紐解き、りんだちの「理想」とツヤの「現実」の対比について深く考察します。
1. 明治中期:「看病婦(無資格)」と「看護婦(専門職)」の残酷な分断
劇中の舞台である明治中期、日本の医療は急速な「西洋化・近代化」の過渡期にありました。
それまでの日本の病院で患者の世話をしていたのは、ツヤたちのような「看病婦(またはお抱え看病人)」と呼ばれる人々です。彼女たちは特別な医学教育を受けておらず、文字の読み書きすら満足にできない貧困層の女性たちも多く含まれていました。その仕事は「飯炊きや洗濯、患者の身体の世話」といった雑用であり、社会的な地位も極めて低く見られていたのです。
そこへ彗星のごとく現れたのが、大山捨松(多部未華子)やバーンズ先生(エマ・ハワード)が導入した、最先端の医学知識と高潔な精神を兼ね備えた「トレインドナース(正看護婦)」という存在です。
多田院長が「看病婦を減らし、すべてを正規の看護婦にすげ替える」という方針をとったのは、当時のエリート医師たちの共通の悲願でもありました。病院の格を上げ、西洋に負けない「近代医療機関」となるためには、泥臭い生活臭のする看病婦を排除し、白衣を美しくまとったりん(見上愛)や直美たちのような「知的な専門職」を全面に押し出す必要があったのです。
2. 4人のアプローチから見る「明治のナース」の4つの生き方
本作の素晴らしい点は、この医療の転換期における女性たちのスタンスを、それぞれのキャラクターを通じて多角的に描いている点です。
| キャラクター | 当時の立場 | 看護に対するアプローチ(思想) |
| 奥田りん | 成都医大病院・取締り(正看護婦) |
【理想主義・教育による救済】
ナイチンゲールの精神を信じ、身分に関わらず「学べば誰もがナースになれる」と熱血指導を行う。 |
| 大家直美 | 成都医大病院・取締り(正看護婦) |
【現実主義・生活の自立】
「無給の仕事はできない」としつつも、長屋の貧しい患者の治療代を肩代わりしようとするなど、目の前の弱者をシステムで救おうとする。 |
| 喜代 | 医療伝道師(養成所一期生) |
【博愛主義・宗教的救済】
病院ナースの「感情を排除した冷徹なプロ意識」に割り切れなさを感じ、宗教的な慈愛をもって貧民窟や社会の底辺に寄り添う。 |
| 三浦ツヤ | 元看病婦(途中入学者) |
【叩き上げ・生活闘争としての看護】
「一生の仕事にしたい」という純粋な憧れと同時に、明日の生計(給金)のために限界を超えて働く現場の象徴。 |
知識を求める「ツヤ」と、病院を去った「喜代」の対比
第64話〜第65話にかけての喜代とツヤの対比は非常に興味深いものでした。
裕福な育ちであり、知識を持ちながらも「病院のシステム(冷徹さ)」に馴染めず伝道師となった喜代。一方で、文字の学問(解剖学やラテン語など)にブランクがあり、生活のために休みを削ってでも「病院のシステム(資格)」にしがみつこうとしたツヤ。
ツヤが「喜代さんみたいな看護婦になりたい」と憧れたのは、喜代が持つ「患者の心に寄り添う温かさ」だったはずです。しかし病院という近代組織が求めたのは、温かさよりも「絶対にミスを犯さない正確なマシーンとしての能力」でした。学校教育を受けていないツヤにとって、その壁はあまりにも高く、過労という形で破綻してしまったのです。
3. なぜ「手紙の投函」が問題になるのか? 問われる看護の境界線
第64話で生徒が放った「手紙の投函は看護ですか? ただの善意ですか?」という問いも、この世相を強く反映しています。
看病婦の時代であれば、患者に頼まれた手紙を出すことも、お使いに行くことも「当たり前の雑用」でした。しかし、りん達が「患者からの金銭授受の禁止」などの規約を作り、近代的なナースの業務を定義しようとした途端、それは「看護の仕事ではない=やってはならない雑用」へと分類されてしまいます。
生徒の土肥ヒデが、ツヤのミスを「間違いに互いに気づけるようにと言っていたのに、一ノ瀬先生の指導不足だ」と批判したのも、エリート生徒たちが看護を「完璧な規律と医学的処置」として捉えているからに他なりません。人間としての温かい「善意」や、ツヤの泥臭い「努力」は、近代医療のルール(正論)の前には、時に「未熟」として切り捨てられてしまう。これが明治の近代化が孕んでいた残酷な側面です。
まとめ:英語の教本に込められた、りんからツヤへの「反逆のバトン」
多田院長に解雇を言い渡され、すべてを失ったかに見えたツヤ。しかしラストシーンで、りんはバーンズ先生が遺していった「すべて英語で書かれた貴重な看護教本」をツヤに託しました。
これは単なるお餞別ではありません。
病院という組織のルール(多田院長の合理主義)に一度は敗北したりんが、「それでも私は、あなたのような叩き上げの人間が知識という翼を持つ未来を諦めない」と、組織のシステムに対して静かに反逆を試みた、極めて熱いバトンタッチなのです。
すべてが英語で書かれた教本は、学校を出ていないツヤにとって、エベレストのように高い山でしょう。しかし、それを抱きしめて「這い上がって頑張ります」と深々と頭を下げたツヤなら、きっとこの浮世の荒波を泳ぎきってくれるはずです。
『風、薫る』が描く看護の歴史は、単なる美談ではありません。時代の犠牲になった女性たちの涙をしっかりと描き、それでも未来へバトンを繋いでいく。後半戦のプロフェッショナル編、彼女たちがどのように古い日本の医療を変革していくのか、その歴史の目撃者として、来週からの放送も襟を正して見守っていきましょう。

